(”cusco3” @Cusco Peru/ Yohei Maeda Photography)
とにもかくにも、この動画の面白さよ。
グループ・サウンズの曲が好きでなかった。フォークは悪く言うとリズムがつまんない。当時の流行り、イケているとされていたものを否定して新しい事へ挑戦した。日本語とロックサウンドを融合させる試みに挑戦した。そんなはっぴいえんどの動画だ。
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”米国のラジオ音楽をきける環境で育った。聞いて育った人は皆ミュージシャンになるんですよ”
”バッファーロースプリング・フィールドが分かった。”
”音をどうやってつくるか、実はしらなかった。ただ、レコードをいっぱい聞いて育ってきた。”
”研究してた。世界に通用するかどうか、そんな事は考えずに、とにかく研究してた。日本語のもつ価値、意味を。すこしずつ試行錯誤していくなかでみえてきたのが風街ろまん。”
はいからはくち
”はいからはくち”は、ライブでかならず演奏する代表曲の一曲。すもうの太鼓から始まる一曲。日本の文化的背景を覚悟して聴けといわんばかりの一曲。
「ハイカラ イズ ビューティフル」で始まる曲だが、そもそも”はいからはくち”とは2つの意味をもたせた造語とのこと。1.ハイカラな白痴(海外のものをばかりとりいれんとする自虐的な批判)。そして、2.肺から吐く血(すごく苦しい ぼくは肺から血を吐くくらい苦しい思い出詞を書いている)という意味あいをもたせた言葉とのことだ。面白いなー。
風街の在り処
風をあつめての歌詞。
”説明なんかいらなかった。同じ風景をみていたので。東京の風がふいている世界観。”
”そこには少年時代の原風景がえがかれている。子どもたちが遊んでいた無くなる前の広場はどこにいったかというと、子どもの記憶の中に残っている。その記憶の街をパノラマのように集めたら、一つの架空の街ができあがる。それが風街。”
”まず路面電車がなくなった。赤坂見附の路線の複雑さ。その景色はもうない。”
”道路や人の繋がりを変えた。クラス会もなくなった。心の何割かを喪失した。その頃の東京が好きだった。風が運んでくるかおりが。”
作詞をした松本さんの生家や友達の家は、オリンピックで立ち退きになった。松本の路面電車への想いは、アルバムジャケットに描かれた路面電車のジャケットにも色濃くでている。都電の画を表紙にしたい、という強い願いを押し通して、都電の画が描かれた内ジャケットに仕上がっている。
日本語の歌詞で全世界に通用すると思うか?
1971年11月20日に発表。ミリオンはおろか、1万枚も売れなかった。
その後、細野さんのYMOや大滝さんのA LONG VACATIONが売れて、はっぴいえんどが再注目され始めた。最終的には、映画ロスト・イン・トランスレーションの曲として使われる事で、世界中へ広まった。日本語のままそれを歌う外国の人がYoutubeで登場し始めた。
”ロスとかNYでアメリカ人の若いのが海外の人が風をあつめてを日本語でうたってくれるんだ。”
”英語でつくってたら、こんなグレードの高いものはできなかっただろうな。"
”日本語でやるかと細野さんと論争していた時に、じゃあ日本語の歌詞で全世界に通用すると思うか? ある確率もある、それは否定できない。っていった。どんな小さな確率でも追求しておくと、あとで夢がかなうということはあるかもしれない。 ”
それでぼくも風をあつめて
”この当時で8チャンネルのテープレコーダーしかなかった。今マルチも残ってる。じゃあミックスできるじゃないとかと思うよね。ただ、全然ミックスする必要はない。やり直す必要はまったくないな。”
”学校の休み時間になると、校庭にでるでしょ。一緒に集まって遊ぶ時もあるときも、遊ばない時もあるでしょ。それに似たようなものかと思ったときがある。”
”答えはない。いまだに色々はっぴいえんどについてきいてくるでしょ。それが答えっていうか。当時苦労して背伸びしてまでもとにかくいい音楽をつくりたいというのに一生懸命だった。”
自分も持っているが、リアルタイムでない自分たち世代や、さらに若い世代も持つべき一枚だと思う。アップルミュージックとかで聴けません。
アップルミュージックで聴くならばこちらをどうぞ。
素晴らしい作品は素晴らしい。
良いものには確かにサムシングエルス(他の何か)があるんだと思う。音楽も写真もなんでもそう。
Maeda