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白黒写真が僕を好きな理由

思いは言葉に / Arigato

(”Arigato” @Gifu Japan Yohei Maeda Photography)

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(*今週のお題「私のおじいちゃん、おばあちゃん」 )

今年で32歳。おじいちゃんとおばあちゃんはもういない。

 

母方のおじいちゃんは私が生まれる前に癌で他界しており、実際に記憶にあるおじいちゃとおばあちゃんの姿といえば、父方の二人と、母方のおばあちゃんだ。今日は一緒に同居していた父方のおじいちゃんとおばあちゃんの思い出について綴ってみようと思う。

 

私は父方のおじいちゃんおばあちゃんと同居して育った。いわゆる田舎の家だったので、小さな頃から田んぼや畑へ一緒について遊んでいた。父母は共働きだったので、小中学校の事業参観には代わりにおじいちゃんやおばあちゃんが来てくれたこともあった。生まれてからずっと一緒に暮らしてきたので、ずっとそばにいることが当たり前の存在だった。

 

おじいちゃんは細身だけど筋肉質で力持ち。手先が器用でとても几帳面な人だった。小学校の頃の夏休みの工作も手伝ってくれた。毎日かかさず日記もつけていた。晩年近くになって色んな薬を飲むようになった時も、飲むタイミングごとに薬を小分けして丁寧にラベリングしてあった事を良く覚えている。そんな人だった。

 

おばあちゃんは女性のわりに足の大きな賢い人だった。母が仕事で帰りが遅い時は母に代わって晩ごはんを作ってくれた。また、母の晩ごはんが楽になるようにと、でしゃばりすぎることなくもなく一品だけ煮物を作ってくれてたりもしていた。気の利いた姑心という名の賢さだったんだなと今更ながら気づく。私が男ながらお手玉もあやとりも一通りできる理由はおばあちゃんが教えてくれたからだ。

 

ほとんど毎日二人で畑や、田んぼへ仲良くでかけて昼ご飯を家で食べに戻る。そんな普通の日常だけでなく、年に数回は二人で国外問わず旅行にも良く出かけていた。「田舎の同年代の中ではおそらく自分たちが一番海外へいってるぞ。」という話がおじいちゃんの自慢だった。

 

私が大学時代にアメリカへ留学を決めた後、父母と離れることよりもおじいちゃんおばあちゃんと離れることの方が寂しかった。年齢的にもしかしたらこれが最後になるかもしれないという怖さがより強かったからだ。だから、長期休みで帰国した時には、畑や田んぼを手伝いながら、二人の写真を沢山撮ったものだった。(*アメリカへ戻る前日に、実家の部屋に”お手伝いありがとう”と書かれた封筒が置いてあった。冒頭の写真はその時のものだ。)

 

そんなおじいちゃんとおばあちゃんは、海外留学を終える時まで結局元気でいてくれた。その後私が東京で働きだしてからも、引き続き元気に生活していた。しかしながら、徐々におじいちゃんは腰痛を訴え出し、足が思うように動かなくなってきた。一方で、おばあちゃんは少しずつおかしな発言目立ち始めたのだった。父が病院に連れて行ったところ、痴呆症が発症しだしているとの事だった。現代の医学では痴呆症を治すことは出来ず、除々に痴呆度合いは進行していった。

 

おじいちゃんは頭はしっかりしているが身体が思うように動かなくなり、おばあちゃんは身体は動くが、痴呆が悪化していた。定期的にデイサービスへ一緒にいくものの、準備の遅いおばあちゃんに苛立ちをみせるおじいちゃんが見れ隠れし始めたのもこの頃だったと思う。おばあちゃんの痴呆具合は進み、お風呂へ入るのも大変になっていた。母が面倒をみていたが、心の広い母ですら少しずつ滅入ってきていたのは明らかだった。

そんな折、おじいちゃんから父へ、

「もうあいつ(おばあちゃん)は施設にいれた方がいい。」

と、父へ言った。

父も考えてはいたがその一言をきっかけに正式におばあちゃんを家から近い一軒家のアットホームな施設へ入居させた。

 

不思議なもので、その数カ月後におじいちゃんは亡くなった。泊まりのデイサービスの朝方に、ひっそりと息をひきとった。タイミングを知ってか知らずか、家族にとって一番適切な判断をして、綺麗に亡くなっていった。本当に不思議なタイミングだったように思う。

 

おじいちゃんの葬儀の時、私はおばあちゃんを車いすで式場へと連れてきた。おばあちゃんの痴呆は更に進行しており、孫達や父母達の名前さえ覚えてない状態だった。葬儀の一番前の父母の隣に車いすで並ぶおばあちゃん。お経を詠むお坊さんを気にもせず、

「わっち(私は)おじいちゃんが一番好きやでね」

と、ずっと連呼して泣くおばあちゃんがいた。痴呆で家族の名前も記憶も全くでてこない状態の中、遺影で笑うおじいちゃんを見るや否や、それがおじいちゃんだと分かるらしかった。分からないかもしれないが反射的に分かっていたように思う。それがおじいちゃんで、そのおじいちゃんを大好きだったという事実は明確に感じていた。

葬儀の後にお坊さんから聞いた話だが、おばあちゃんが施設に入った後におじいちゃんが「とうとうあいつは施設に入ってしまってね。」と寂しそうに話をしていたと聞いた。



うさぎは寂しいと死ぬらしい。

寂しさが死期を狭めたという考え方も無いことはないが、おそらく、おじいちゃんは自分の死期めいたものと家族の状況をちゃんとみていたのだと思う。そして、家族にとって一番適切なタイミングで最愛の妻を施設へいれるようにと息子の肩を押した。

 

その後、おばあちゃんは痴呆がなだらかに進みながらも、日差しの気持ちいい小さな老人ホームで5年程過ごして亡くなった。消滅する記憶に反比例するかのように、幼少期に覚えた歌を良く思い出しては歌って、静かに余生を全うした。


二人が最後にみせてくれたこのやりとりが、おそらく今まで自分が目撃した一番大きな”愛”だったように思う。そんな愛を自身でも創りたいし、次へと繋ぎたいと思わせてくれた体験だった。最後の最後まで人生を教えてくれたおじいちゃん、おばあちゃんに心から感謝している。

 

思いは言葉に。「ありがとう」。 。

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Maeda

 

  

追伸︰自分が撮りためたおじいしゃんとおばあちゃんの写真達。もしよければご覧下さい。

More Photos / Photography:Yusuke&Kunie

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