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白黒写真が僕を好きな理由

ブルーベリークーラー甚句2018 / mad cow

(”mad cow” @Cebu Philippines Yohei Maeda Photography)

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築90年の田舎の実家。暖かいぬるま湯のような風が吹き抜ける畳で寝転がっていた。窓という窓は全開。チリンチリンと風鈴がせわしなく騒いでいる。

どこかで観た風景だなぁ。と天井を眺めながら思い返していると、そうだ小さな頃に寝かしつかされ、軽く汗ばんで目覚めた時もたしかこんな風だったなぁ。と思い出す。

 

先日、会社の仲間達と座禅へ行った。座禅は初めての経験だった。日々の仕事が巡っていく中で、昔の夏休みの記憶が断片的に出ては消えた。実際にそうだったかどうかはあまり関係ない。それっぽい、夢のような、さぞ思い出らしいものが駆け抜けていった。ぼーっとしていた。が適切な表現だと思う。無心とは程遠かったと思うのだが、それが座禅だと後輩が後から言っていた。どうやらあれで良かったらしい。

 

生温い風布団を脱ぎ捨て、そろそろ帰京という名の現実へ戻ろうかと台所へ向かう。この古民家で唯一、クーラーのある台所。父が買ったばかりのiPhone10を眺めている。まだ慣れない、なんていいながらも趣味の相撲甚句動画をyoutubeに載せてはPVを気にしている。母は近年お気に入りのブルーベリー農家へお盆のお供えを調達しに出払っていた。最近流行りの「多動力」は、母の為に作られた言葉ではないだろうかと錯覚するほどに動き回る。世間のお盆というお休みムードは一切関係なく。

 

部屋にはクーラーの涼しくて快適な空気が満ちていた。外気を遮断し調整された室温は確かに涼しくて快適だ。しかしながら、あの生温い古民家を吹き抜ける風と畳の感触、忙しない風鈴、じんわり汗ばんだ肌達が織り成す”それ“はこの冷たく冷やされた部屋では居合わせない。優劣の問題ではない。世界が違うのだ。

 

座禅の時に記憶の片隅で出ては消えた思い出らしき夢という名の無心は、幼き夏の日に刻み込まれた触感だったのかも知れない。

 

ついつい実像めいた虚像を是とする生き方へ傾倒しがちな世の中だが、真実はいつだってシンプルだ。良いものは良い。昔から変わらずそこにある。本質は変わらない。Hello, Again ~昔からからある場所~ にあるのだろう。

そんなことを想った2018年のお盆。実家で過ごした夏休み。

お題「夏休みの思い出」