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白黒写真が僕を好きな理由

そこにいれば、いい写真は撮れる / 3

(”3” @Somewhe SpainYohei Maeda Photography)

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報道写真家。戦場カメラマン。

この世の中には文字通り命がけで写真を撮る人たちがいる。銃弾飛び交う中でその場で起きている現実と、その中にみえる人間模様を写す人たちがいる。 

澤田教一写真展「生誕80周年 澤田教一:故郷と戦場」へ行ってきた

先日、そんな報道写真家の澤田教一写真展「生誕80周年 澤田教一:故郷と戦場」を青森県立美術館で観てきた。
澤田教一(さわだ きょういち、1936年2月22日 - 1970年10月28日)は、日本報道写真家。ベトナム戦争を撮影した『安全への逃避』でハーグ第9回世界報道写真コンテスト大賞、アメリカ海外記者クラブ賞、ピューリッツァー賞を受賞した。(wikipedia)
 
澤田教一といえば、ベトナム戦争時にピュリツァー賞受賞作に含まれる《安全への逃避》(1965年)では、戦闘で故郷を追われながら、必死に生き抜こうとするベトナムの人々の姿を捉え、世界中に戦争の過酷な現実を突きつけた。 
 
《安全への逃避》(ピュリツァー賞受賞 1965年)

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敵を連れて(第10回世界報道写真展ニュース写真部門第2位 1966)

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ベトナム戦争の激しさがました時期、激戦地での撮影を続けた。34歳で銃弾に倒れるまでの約5年間に、数々の傑作を世に出し続けた。1970年(昭和45年)プノンペンの南約30キロの国道2号線上で取材中、何者かに狙撃され死亡した。

 
そんな青森県出身の彼が残したフィルムや電送写真原稿などを元に今まで未発表のカットを含む写真や資料300点余りが展示されていたのだ。
 
ベトナム戦争下の生々しい写真も勿論だが、彼が写真にのめり込んでいく日本の米軍駐留基地内での写真や、故郷青森の普通の日常。”安全への逃避”があまりにも有名だが、当たり前のように彼が撮り続けた何枚もの”普通の”写真をみることができて、共感と共に親近感を覚えた。
 
故郷青森と戦地を行き来しながら撮影したほんの5年足らずの時間が数々の強烈な写真を産んだ。最初のベトナムは自費で乗り込んで撮影し、後期のプノンペンも香港の安全なデスクワークに戻されてもなお、自ら戦地を志願している。名作とは、”その時そこにカメラと共にいる”という事実をいかにつくれるか、すなわち、その情熱に起因するなと改めて感じさせてくれる。
 

 「生誕80周年 澤田教一:故郷と戦場」のパンフレットより

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一ノ瀬泰造という報道写真家

話は変わる。日本人の報道写真家といえば、もう一人有名な人物がいる。
 
半年の試用期間の後UPIを解雇され、フリーランスの戦争カメラマンとして活動を開始。米軍キャンプPXの写真屋で1年間働き資金を貯め、インド・パキスタン戦争へ向かう。1972年3月、ベトナム戦争が飛び火し、戦いが激化するカンボジアに入国。以後ベトナム戦争カンボジア内戦を取材、『アサヒグラフ』や『ワシントン・ポスト』などのマスコミで活動し、「安全へのダイブ」でUPIニュース写真月間最優秀賞を受賞した。
カンボジア入国以後、クメール・ルージュの支配下に有ったアンコールワット遺跡への単独での一番乗りを目指しており、1973年11月、「旨く撮れたら、東京まで持って行きます。もし、うまく地雷を踏んだら“サヨウナラ”!」と友人宛に手紙を残し、単身アンコールワットへ潜入し、消息を絶った。
9年後の1982年、一ノ瀬が住んでいたシェムリアップから14km離れたアンコールワット北東部のプラダック村にて遺体が発見され、1982年2月1日に現地へ赴いた両親によって確認された[1][出典無効]。その後、1973年11月22日もしくは23日にクメール・ルージュに捕らえられ、「処刑」されていたことが判明した。(Wikipedia)
プノンペンから少し離れたシェムリアップには、一ノ瀬泰造の墓がある。
 
澤田がプノンペンで亡くなったのが1970年。一ノ瀬がシェムリアップで消息を絶ったのがその3年後の1973年。一ノ瀬は澤田よりも9つ年下だったので当時26歳。澤田ほどの報道写真家としてのキャリアはないが、まさにこれから沢山の写真を残さんとする意気込みめいた心情を感じる。
 
彼は戦争下の写真もそうだが、それ以上に村での普段の村人達の写真、また、そこにいる子どもたちの普通の日常の写真が素晴らしかったりする。彼の人柄がそんな写真を通して垣間見える。
 
《安全へのダイブUPIニュース写真月間最優秀賞

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また、こちらもあまり目にする機会はないのだが、彼の写真サイトが存在している。そこには戦地で撮影した数枚の写真と共に、故郷(泰造の故郷、武雄の隣町の有田)を写している写真が存在する。有田の町やそこで暮らす人々をライフワークとして撮影していたらしい。

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写真家 一ノ瀬泰造 オフィシャルサイト

言葉を選ばず言えば、”普通の写真"なんだと思う。こういった普通の日常を愛して撮影する若者が、戦争下でのみ写るその景色に魅了され、それを残さんと挑んでいったのだろう。世の中に出回る写真はいつも衝撃的な戦争中で撮影された1、2枚だ。しかし、こういった普段の写真とのギャップを見ることで、いかに名作といわれる写真が一瞬の偶然たる産物かが分かる。同時に、その偶然をつかむ裏にある計り知れない情熱の大きさも。

 

一ノ瀬泰造に関しては、”地雷を踏んだらサヨウナラ”という書籍、また、その映画(浅野忠信主演)が有名。写真を知らない人でも分かるかもしれない。20代のギラついた無謀さが危うくて美しい。まだ観てない人、また、一ノ瀬泰造に興味が湧いた方はぜひ一度観てほしい一本だ。

そこにいれば、いい写真は撮れる

良い写真を撮る絶対的方法論は存在しないだろう。しかし、一つだけ言えるのは、”その時その場所にカメラをもってそこにいること”は絶対的真実だろう。。すなわち、撮るんだ。という気概というか、情熱だと。カメラを持って出かける態度だと。

 

なぜ、なんのために、同じ国民が戦わなければいけないのだろう。

ほんとうのものを知りたい、つかみたい。

If you are there, you get good pictures.
そこにいれば、いい写真は撮れる
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Maeda
 
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