(”hana” @Gifu Japan/ Yohei Maeda Photography)
カラー写真は中判カメラを使う。
(35mmでは味わえない繊細な描写が好きだから)
(”hana” @Gifu Japan/ Yohei Maeda Photography)
カラー写真は中判カメラを使う。
(35mmでは味わえない繊細な描写が好きだから)
(”george” @Miami USA/ Yohei Maeda Photography)
アメリカ大統領選2016が話題だ。
*現時点(2016年9月時点)でヒラリーが、若干ドナルドトランプの支持率を上回っているものの、依然トランプ大統領誕生の可能性はある。
”ボケている老人”といえば、それまでだろう。しかし、奇天烈な言動はあれど、はっきりと当時の大統領ジョージ・ブッシュを批判していた。
ジョージ・ブッシュといえば、イラク戦争を決断した大統領。「戦争をする大統領達なんて馬鹿で、その中でブッシュは群を抜いて大馬鹿だ。」と力説していた。また、ホステルの部屋中に落書きをしまくっていた。ジョージがジョージ・ブッシュの悪口を落書きしまくっていた。
”I HATE BASTARD
PRESIDENT
BUSH!”
くそったれなブッシュ大統領が大っ嫌いだ!
大部屋に1つ設置してあった冷蔵庫の側面。
「フロントにバレたら追い出されるから黙っておいてくれよ。へへへ。」なんて笑いながら。お気に入りの自作の帽子と共に写るジョージ。
アメリカは一体どこへ向かって行ってしまうのだろう?まさかまさかトランプが大統領にはならないよね。。
今もジョージは健在なのだろうか?あの後、彼は無事にホステルをチェックアウトできたのだろうか?
もしも彼が元気であれば、今ごろ「I HATE FU◯KING TRUMP!!(くそったれトランプなんて大嫌いだ!!)」と声高らかに叫んでいる事だろう。なんて思いながら。
Maeda
(”persons” @Machu Picchu Peru/ Yohei Maeda Photography)
仕事柄、海外の人達とスカイプ会議をする。
その日も相手側にはシンガポール人4人+フィリピン人、 こちら側にはスイス人とギリシャ人と日本人の私でSkype MTGをした。
その会議の中で、「It(the advertisement) has been active since last Monday」と私が説明した。が、彼らはThis Monday? Not last Monday last week,right?? と猛烈にこいつ何言ってんだ的な感じで聞き返してくる。
その日は水曜日。その週の月曜日の事を意図して”Last Monday”と自分は表現した。なぜならば、Last~~は一番最新の、過ぎ去った中で直近のものを意味すると習った記憶が鮮明にあったからだ。
しかし、その場にいる誰もが、Last Monday(先週の月曜)ではなく、This Monday(今週のの月曜)ね。と私の表現が間違っているかの如く切り返してくるわけだ。。結局該当する日にちを言い直し、This Mondayだよ。と言い直すことでその場は過ぎ去った。が、とても納得いかないやり取りだった。。自分の表現は英語的に間違ってないはずと。。
スカイプを終わり、こちら側にいたスイス人、ギリシャ人の同僚に主張するも、「Last Mondayだと先週っぽいよね。」と、彼らも私の意見には同調せず。。実際、Googleで調べてみると、私が習ったと記憶しているLast~~は過ぎ去った中での一番最新のもの という自分の認識は正しいかった。。使い方も問題ない。
確かにThis Monday だけど、それって要するにLast mondayだろーがと思いながら、もっとちゃんとした英語を理解してくれよ。なんて悶々としていた。
しかし、その後にランチをしながらスイス人の同僚が私に諭してくれた言葉に納得したのだった。
スイス人同僚曰く、
「私達スイス人はドイツ語、フランス語も使う。それは、ドイツ語はドイツ人のためだけの言語でもなく、フランス語もフランス人だけのものでもない。つまり、より曖昧な表現。曖昧な言葉は正しくても通じない事ってありますよ。だからこそ、より明確な、伝わる言葉。伝わる言語。伝わる会話が必要だと思います。」と。。
うーん。おっしゃる通り。英語はアメリカ人のものでもなければ、イギリス人のものでも既にない。。国際語たる英語、さらには、会議に参加してたみんな第二言語として利用している英語。言葉としての正しさは大事だが、会話としての正しさはもっと大切なのかもなと納得したThis Wednesdayだった。
言語がコミュニケーションツールの1つだとすれば、確かに伝わる言葉の選択は重要だよなと感じたLast Wednesday。
Maeda
(”456” @Somewhere Laos/ Yohei Maeda Photography)
そんな私が見とれてしまい、意図せず思わず購入してしまったカメラバックがこちらだ。四の五の言わずに、以下写真達から感じてほしい。
個人的にはPhotographyの状態がもちろん好きだが、それ意外にも色んな用途が想像できる事は嬉しい。
個人的に好きな部分。普段は大きくしたくない。が、旅行などでは大きく使いたい。荷物や用途に応じてフレキシブルに対応できる部分は胸熱。
カバン一つで国内外旅にでれそうだ。
何かあればすぐに撮影できる、また、撮影しようと思わせてくれる状態が重要だ。そういった意味では、正しく収納できてすぐに取り出せる事はマスト。
カメラと複数レンズ収納可能で、カメラの2台持ちも可能そうだ。
結局ほぼ使うことないとは思うが、嫌いじゃない。何気に海外でのセキュリティー用に使えたりするので◯。
ダサいと使わなくなる。これは間違いない事実。少なくともかっこいい見た目は大切。あと、手提げのように利用できる手持ち部分。仕事で常に持ち運びするPC収納がある点も抜け目がなくおすすめポイント。
順調に制作がすすめば、予定では年明け(2017年1月)くらいに届く予定。今から楽しみでならない。問題なく、かつ、ちゃんと想像どおりのクオリティのカメラバックが手元に届くことを期待したい。実際に利用したらその感想も別途書いてみようと思う。
あと数日で支援は終了予定。支援購入だと普通価格よりも安く購入できるが、この鞄専用のHPも存在するのでそちらからも購入できそう。気になる方はチェックを。
PRVKE 21 | The Best Bag For Everyday Carry & Camera Gear by WANDRD — Kickstarter
旅人であり、写真家であり、コミューター(移動よくする人?)であり、模索し続ける事が好きな人たちだそうだ。国が違えど、自分と価値観が近しい気がするから、そんな人達が創ったバックに恋してしまうのだろう。Thank you!!
(”Onkochishin” @Somewhere Malaysia/ Yohei Maeda Photography)
大人は近視である。
元来、人間というのは案外近くのものを上手く視ることができない生き物なのだろう。しかし、あなたは近くを視る事が上手なんだと改めて思った。
大学卒業後の数年間の葛藤は、日本、アメリカ問わずおそらく同じように存在し、その混沌の中で視た絶望めいたものと、幸せめいたもの、それらの狭間にもしかしたら存在するかもしれない自分の生きる道を机に向かう事で捻りだしている、そんな作品なんだろう。
ライフワークとは良く云ったもので、これはあなたのライフ(人生)そのものだ。
ペンで1つ1つ丁寧に書き込まれた絵の裏に転るあなたの姿は、ドローイングの授業開始前からせっせと漫画を描いていた、始めて出会ったあの時と何も変わらないのだろう。
いつの時も、個人的な主観ほど人の心を震わせるものはなく、そんな確固たる主観を堂々と数年振りに見せつけられたような感覚が私を奮い立たせてくれる。
大人になればなるほどぼやけるその近場の視界を、今尚クリアに見えるあなたのような目にこそ価値を見出すべきだろう。いつも、どんなときも。
#アメリカの友人でCartoonist(漫画家)Justin Hubbellの初めてのコミック書籍”THE PET”を読んだ感想文。
#興味ある方は下記のWebサイトよりチェックしてみてください。
Maeda
(”Father” @Chicago USA/ Yohei Maeda Photography)
夏はあまり好きじゃなかった。今年から何故か好きだと思うようになった。ふと。
夏はもっと長いものだと思っていた。今年からとても短いものだと思うようになった。これ本当に。
海だ海だと騒ぐ周りをみても正直心踊らない自分がいるのとは対照的に、”川”、特に山間に流れる川をみるとワクワクする。子どもの頃に夏休みには決まって岐阜の山間の川(マス釣場)へ行っていたからだと思う。断然、海より川派なのだ。
お盆前の7月最後、もしくは8月初旬頃になると、毎年連れて来てもらっていたマス釣り場があった。そのマス釣り場は、夏の間だけ老夫婦がその山の中の家に住み込み、二人で営んでいた。本当に山の中にあった、自然の川の中にあった、言葉を選ばず言えば、半分趣味的に運営されていた場所だった。自分が18歳頃まで行っていた記憶があるので、年月にすれば10年以上も前が最後の訪問となる。
今回実家に帰省した際、「もう一度行ってみよう。」という思いつきから急遽向かうことになった。当時の夏休みと同じように家族で朝から向かったのであった。
千と千尋みたいな山道を抜ける。
夏の期間だけおじさん、おばさんが住んでいた家はそこにあったが、マス釣り場は開いておらず、マスが大量にいた生け簀も空だった。おじさん、おばさんもいなかった。それもそうだろうと。父や母よりも更に一回り上の年齢だったから、今なら70歳をこえているはずだと。
川は昔とあまり変わらない形で、綺麗に穏やかに流れていた。本来はマス釣り場なので、”マス釣り”が正しい利用方法ではある。しかし、釣りは早々に切り上げ、直接潜って網でマスを捕まえるという”マス捕り”という新しい遊び方が私たちは好きだった。自然の川ではあるものの、おじさんが丁寧に手入れをしており、また、程よい大きさ毎に区切られた川の大きさがマス捕りには最高なのだ。(大きすぎたり、深すぎるとやはり魚が強い。狭すぎても簡単で面白く無い。本当に程よい空間が”マス捕り”には重要。魚と人間の駆け引きが最高に面白くなるからだ。経験者だから分かる。)
今から思うと釣り場で潜らせてくれていたおじさん、おばさんは相当寛大だったなと思う。いつもニコニコしながら見ていてくれた記憶しかない。
念のため、小中学生の時の釣り道具を引っ張りだして、持参してきてみた。行く途中で簡単な仕掛けと餌も購入して、釣りもした。ヤマメとか、よくわからない魚とか釣れた。こちらも楽しかった。
写真も撮った。
あの頃と同じように、兄弟(おっさん達)でも一緒に潜った。
当時のように管理されてないから、あの時かさ増しで足されていたニジマスはいなかったけれど、当時食べることができたおばさんの作るうどんもなかったけれど、当時と変わらない夏休みはそこにはあった。